歴 史

開基~平安期

白雉(650-654年)の頃、法道仙人の開基と伝わる。

開基の時は、境内地の裏山の宮内村にある式内社 盈岡神社の側に寺屋敷があったとされ、

現在も神社には、法道仙人ゆかりの牛頭天王社や薬師堂・弁財天堂があり江戸時代には別当寺としての記録も残る

現在調査中ではあるが、当寺には平安前期~平安後期作とされる仏像が3体存在する

鎌倉期~織豊時代

鎌倉時代頃から宮内村に拠点を置いた藤原氏が境内裏手の標高230mに

法道寺城(当初は中山城であったが何時の頃か変更)を築き

以後、織豊時代には天空の城で有名な武田城の支城であったとされる。

現在の法道寺境内は、石垣の様子から見て織豊時代頃には法道寺城の武家屋敷であったとされ

江戸時代前期頃に宮内村から法道寺村に移動されたとの説もある

江戸時代

萬治年間(1658-1661年)に中興の祖、覺運坊秀政大阿闍梨により伽藍が整備される

又、秀政上人の法力で天から降ってきたといわれる巨石が現在も霊石として存在する

秀政上人により、光明真言を唱える信徒が増え、法道寺が興隆したが、妬んだ僧が生野代官所に訴え出て

秀政上人が、江戸の寺社奉行所で詮議をかけられる事となり、その様子を書き記した手紙が現在も残る。

無事に江戸から帰られた秀政上人は、詮議の内容が幕臣の越前松平家に伝わり、法道寺より越前松平家に招聘され

福井市国山町の愛染寺を開山された。没後、秀政上人の偉業を称える碑文を

西国三十三観音霊場 第二十九番札所 松尾寺の当時住職であった等空大阿闍梨から碑文が送られ現在も残る

秀政上人が再建されたが、正徳年間(1711-1715年)に火災に遭い大師堂を残して大半が焼失。

寛文3年(1663年)建立の大師堂が当時のまま残っている。

本堂は享保2年(1717年)、鐘楼は宝暦8年(1758年)に再建された。

 明治~昭和

平成~

令和~